普通じゃないこと

遥か彼方、熱帯の海の上。
太陽に熱されて、ふわりと浮かびあがる風があった。
風と風は中央でぶつかり、挨拶をする。
やあこんにちは、やあこんにちは、また会いましたね、また会いましたね。
二人が手を繋いでぐるぐる踊り出すと、ごうごうと激しい龍がその間から生まれた。


***


「やったー!」

周りの皆が先生の言葉を聞いて歓声を上げた。
そんなに嬉しいことかなあ。僕は苦笑する。
どうせ今日やるはずだった授業は次に持ち越されるだけ。むしろ、彼らがそれについていけるのか不安になってしまう。班の得点が良くなければ、居残って計算ドリルを余計にやらされることもある。道連れになるのは御免だ。

「終わりの会始めるね。この後は登校班で帰って貰うから、地区ごとに今から黒板に書く教室に集まること。あと、このプリントは帰ってすぐ親御さんに渡すようにー」

先生が声を張りながらプリントを配っていく。
前の生徒から回って来たそれを後ろに回しながら、僕もそれに目を通した。
急いで作ったもののようで漢字が間違っている。指摘するのもやぼなので黙っていると、クラス委員の女の子が手を上げた。

「先生、このプリント漢字が間違ってます」

案の定、先生は苦笑しながら黒板にチョークで正解の字を書きつける。
その分終わりの会が長引いてしまって、周りの男子は口々に不満を漏らした。クラスの中心に位置する女子達が睨みを聞かせると、ぴたりとそれが止まる。小学六年生にもなると、男子と女子の間には深いみぞが出来ていた。 男子は女子を非難するのをやめた代わりに、午後からゲームができるとかテレビが見られるとか、そういう話で盛り上がり始める。

「はい、うるさいよー! 明日の時間割だけ書いておくから、ちゃんと写して帰ってね」

黒板にチョークで書かれた時間割を、僕は手早く鉛筆でノートに書き写した。
みんなが追い付くまで手持無沙汰で、頬杖をついて窓の外をぼんやりと見上げる。
窓際の後ろから二番目。とおくまで空を見渡せる席だ。でも、今のみんなの喜びの元であって先生達が僕達を早く帰らせようとする原因である台風の姿は、そこにない。
どこまでも青い空と、白い入道雲がもくもく広がっているだけだ。
先ほど渡されたプリントによると、お昼頃には大変な雨風がこの一帯を包むらしいが本当だろうか。

「みんな写せたみたいだね。質問がなければ日直さん、さようならしてくれる?」


いつもより早く、『終わりの会』が終わった。
僕は長年付き合って少しぼろっちくなったランドセルの中に持ち物を入れていく。
毎日持って帰るのが面倒だからと机の引き出しをいつもぱんぱんにしている子もいるけれど、僕に言わせるとそんなのは恰好悪い。
すっ、と支えなく引き出しをひくことができて、必要なものが必要なだけ整理されてあることこそ恰好いい。お母さんも、普通の小学生はちゃんと物を持ち帰るものよ、といつも言っている。
僕はその教えにのっとって、今日持ってきた算数と国語と社会の教科書を鞄に入れた。パチンと金具をひねる。
給食袋をランドセルの隣に下げてから、明日は音楽のテストがあることを思い出した。
机の横に引っかけていたリコーダーを手に取り、強引に指で開いたランドセルの隙間に突き刺す。

「……これでよし、かな?」

最後に、登校班の班長だから、皆を引っ張っていくための黄色い班長旗を手に取る。
少しよれている部分を巻き直しながら、僕は地区ごとに決められた教室へ向かった。?
全員がそろい次第、先生にそのことを伝えて帰ることができる。
てちてち、とまだ幼さを残す一年生の子が来て後ろの席に座ると、僕は立ちあがって先生に人数を申告しにいった。




皆を引き連れて帰り道を行く。
こんなに早く帰るのは久しぶりで、低学年の頃に戻ったような気持ちになった。
あの頃は高学年の人たちが大人びて見えたけれど、今は僕が彼らからそう見えているのだろうか。
遅い子にあわせて歩いていると大きな橋に差し掛かった。
橋を渡ってまっすぐいったところにある集合団地が、僕の班の皆が住んでいるところだ。

「皆、もうすぐ到着するからね」

班旗を持って後ろを振り返ろうとしたその時、僕は河原に男が仰向きに寝転んでいるのを見た。
青青しい草の上、汚れることもいとわずに、彼は長い手足を投げ出すようにして、ごろん、と寝転んでいる。

「みつにいちゃん、誰か倒れてるー」

そちらを凝視している僕につられたのだろう。班の子供達も橋のらんかんに手を掛けて、その間から河原を覗き込んだ。

「やばいよ、台風きたらあの人しんじゃうんじゃない?」

すがるような目で見つめられて、参ったなと頬をかく。
普段この河原は綺麗に片付けられていて、橋の下や段ボールに住んだりするような、いわゆる『危ない』と大人達にいわしめる人間は、いない。
寝転んでいる彼がそうだとは限らないが、あんな風に普通の大人はしないことをしているのだから、警戒はするべきだ。 僕は、この珍しい光景に少し緊張した。

「みつにいちゃん」
「うーん」

僕は彼が近づいても大丈夫な大人なのか見定めるため、目をこらした。
遠くにいるからよく見えないけれど、だぼっとしたズボンと頭に巻いたタオルは、工事現場にいるようなおじさんを思わせる。
だけど、おじさん、というにはずいぶん若いような気がする。遠目からだから、はっきりとは言えないけれど、まとう空気がくたびれていない。
眠っているのか、彼は微動だにしなかった。
もしかすると、このまま台風が来ても目を覚まさないんじゃないだろうか。
だとすると、ここで誰かが彼を起こさないといけない。本当に死んでしまうかもしれない。
班員達もそれを心配しているのだろう。じっとこちらを伺ってくる。僕の班の子たちは、皆いい子ばかりだ。

「みつにいちゃん」
「そうだね、」

明日の新聞に、台風ではんらんした河原で溺死一名なんて出たら怖いし困る。

「僕、ちょっとあの人に注意してくるよ。先に帰っててもらえるかな?」

手をちょいちょいと動かして、一番後ろを歩いていた副班長を呼んだ。

「今日はここから家まで、君が班長代理だ」

彼は旗を持ちたいとずっと言っていたから、それを差し出すと嬉しそうに受け取ってくれた。
ここからはずっとまっすぐだし、彼なら大丈夫だろう。

「任せたよ」

僕は、ぽん、と彼のランドセルをたたいた。
僕よりも少し綺麗なランドセルだった。




皆を見送った後、僕は斜めになった河原を、とととっ、と降りて行った。
草を踏みしめる度、青い匂いが漂う。
寝転んでいる男のすぐ傍まで近づいて、僕は彼を見下ろした。
やっぱりおじさんじゃない。

「お父さんより、ずっと若いね」

といっても、少なくとも僕よりは年上だった。
日焼けしたのか元々なのか、肌が浅黒い。すっと通った鼻の頭は、少し汗をかいて光っていた。
前髪はタオルのなかにしまわれていたけれど、耳の下から出ている襟足は長い。肩まで伸びてくるりと巻いているその先だけが赤かった。
うちの学校で男子がこんな髪型をしていたら、きっと先生に怒られるだろう。
不良なのかな。僕はそう思いながらしゃがみこんだ。不良だったら怖いけれど、なんだか目が離せない。すらりと伸びた手足が綺麗で、顔のつくりだって悪くない。
男の瞼はしっかり閉じていた。その上で手を振っても僕の影が彼の顔の上で忙しなく動くだけだ。
まさか、もう。

「死んでる?」

思わず呟くと、ふる、と彼の身体が震えた。次いで、そのふっくらとした唇がゆがむ。
く、と動いた唇のすきまから白い歯が見えた。

「生きてる!」
「ふっ。お前、人を勝手に殺すなよ」

閉じていた瞼が、あっという間に開かれる。
まつげで囲まれがちの目が、くっきりと存在を主張した。
その中にあるひとみが金色だ。僕が毎朝鏡で見る自分のそれと似ている。似ているけれど、何かが違った。僕は、ぼうっとそれに見入る。

「どうした?俺の顔に何かついてるか」
「いや、君の目の色、僕の目と同じ色だから。でも、なんだか雰囲気が違うから不思議で」
「なんか違う?」
「鏡で見慣れた僕のとは違って……」

うずうず、と手が動く。自分のには、こんなこと思ったことないのに。

「触りたくなる」

僕が言うと、彼が顔をしかめた。そりゃそうだ。睫毛が目に触れただけでもいたいのに、指なんかで触られたらひとたまりもないだろう。

「怖いことをいう奴だな。俺のに触りたいなら、お前のも触らせろよ」
「あっ……!」

男の手が僕のほうに伸ばされ、するりと頬をなでてきた。
その手はざらついていて、ごつごつしていた。
知らない人についてっちゃいけません。そんなお母さんの声が聞こえてくる気がした。けれど、別に触れられているだけで、ついていっている訳じゃない。
覗きこんでいたために左目にかかっていた前髪を、彼の長い指がはじいた。金色の目が動いて、僕の顔をその中に映す。彼の澄んだ金色が、それで暗くなった。
どきん、と心臓が一つ鳴って大きく膨らむ。

「お前のは、甘そうだな。どちらかというと、舐めたい」
「なめたい?」
「べっこう飴みたいだから」

べっこうあめ。とは何だろうか。聞いたことも、見たこともない。

「べっ……なに?飴っていうくらいだから、飴なんだろうけど」
「知らないのか、べっこう飴。あまくて、うまいぞ」

意外そうに、彼は目を見開いた。

「お菓子、だよね?僕のお母さん、お菓子沢山食べると身体に悪いって言うんだ。だから、お菓子はあんまり食べない。あなたは大人なのにお菓子にくわしいんだね」
「子供の頃から知ってるが。……まあ、大人になってからの方が種類に詳しくはなったかもしれないな」
「変なの。普通じゃないね」

大人はお菓子を食べないものだと僕は思っていた。
お母さんもお父さんも、食べないから。

「そんなことはないだろ。お前が知らないだけで、世の中の大人はお菓子大好きだぞ」

彼は僕の目を見るのに満足したのか、僕の眉間を爪の先で擦って指を離した。

「その眼帯は恰好いいな、伊達政宗みたいだ」

伊達政宗なら知っている。持ち帰ってきた社会の教科書にも載っていた。

「政宗公は格好いいよね。習ったばかりだけど、僕歴史は得意なんだ」
「歴史はというか、お前、勉強は全部得意ですって顔をしてるが」

どういう顔だろうと一瞬思ったけれど、なんのことはない。
多分、お母さんの友達に紹介される時、よくその人から言われる、『賢そうなお子様ですね』と同じだ。僕はそれがお世辞だと知っている。明らかにそう見えない子供には言われないから、少しばかりの信ぴょう性はあるけれど。

「得意なんだろ?」
「勉強が出来たら格好いいからね。あ、でも言っておくけど、かけっこだって負けないよ?野球も強いんだ」

勉強だけだと思われるのがしゃくで、重ねて得意なものごとを口にだす。

「わかった、わかった」

くくく、と笑われて、なんだか僕はかっと頬が熱くなった。僕が得意なことなんて、どうでもいいと思っているのかもしれない。
彼は手を頭の上で組んで、じっと空を見つめ始める。
きんの目が映しているのが僕じゃなくなって、少しだけ残念な気分になった。
そろそろしゃがむのが辛くなって、僕はスクワットをするように立ったりしゃがんだり、あるいはその場で足踏みをしたりする。
そうして当初の目的を思い出した。

「ねえ、君はここで何をしてるの?」
「見ての通り、寝転がってる」
「どうして?」
「空を見るため」
「さっきは寝てたのに?」
「あれもちゃんと見てた。心で感じながら」
「心で感じながら見る?全然意味が分からないよ。それに、そんな風に寝転んだりしたら背中が汚れちゃうじゃないか」
「それくらい構わない」
「普通大人は構うだろ?大人はこんなことしないもの。君って変わっているよ」

僕の声がとがめるようなものになったのは、仕方ない。
何か道にそれたことがあれば、それは普通じゃないということだ。普通じゃないことをすれば、お父さんやお母さんに怒られる。社会的に、非難されたり遠巻きにされる可能性が高い。

「普通ってなんだ」
「え?」

僕の言葉に彼は少しも動じなかった。

「普通って言うのは、つまり――」

僕がしどろもどろに平均的に、とか一般的に、とか言っていると、彼はそれを鼻で笑った。

「じゃあ、お前は普通だからって理由で動くのか。いつも周りをうかがってから、動くのか」

主体性がないと言われている気がして、首を振る。僕は僕で、感情がある。

「……それは、そうじゃない時もあるけど」

普通をスタンダードにしてそれ以上でないと恰好が悪い。
僕はお母さんやお父さんにそう教わってきた。
勉強も、生活態度も、何もかも。でも普通の下にあるのは、悪い事なのだろうか。
彼の言葉で、今まで感じたことのない不安に襲われる。普通を真ん中にして、そこには上下しかないのか。もしかすると普通という尺度は、左右に何か別のものがある真ん中なんじゃないか。

「でも……でも今日は、台風が来るんだよ。だから、」
「ああ、それでお前みたいな奴が今の時間に学校から戻ってきたんだな」
「早くしないと、ずぶぬれになっちゃうよ」
「そういわれるほうが、納得できるな。少なくとも普通じゃないから起きろと言われるよりは」
「じゃあ、」
「だが、俺の家はすぐ近くだから問題ない。それに、昔から気象を読むのは得意なんだ。台風が来るぎりぎりまで、ここにいるさ」

彼は僕の忠告に対してそういった。やはり、動かない。

「じゃあ、僕もいる」
「お前も?……ふん、勝手にしろ」

何か意地になって、僕は彼の隣に体育座りになった。
しばらくひざを抱えてぼんやりしていると、風がさらさらと草をなでる音が聞こえ始めた。河を、何か小さな生き物が跳ねる音も。
ぱしゃん、と跳ねる魚の形と水が、見えないのに見える気がした。
彼がいっていた意味が分かって、僕はこれかあ、とため息をついた。

「ふ……」

ふいに、隣から小さく息を吐くような音がした。僕は、そろりとそちらをうかがう。
彼が柔らかい笑みを浮かべていた。目じりが先ほど僕に相対していた時よりも下がっている。

「なんで笑ったの?」
「寝転がれば分る」
「でも……背中汚れちゃうだろ?汚れちゃうのは、恰好悪い」
「なら諦めるんだな。ただ俺は、自分のこれが恰好悪いとは思わない」

なんだか彼が凄く自由に思えた。うらやましい。浮かべた笑みの謎も、気になる。
辺りを見渡すけれど、分からない。
今まで出された問題のどれよりも難しい。そして、今まで出された問題のどれよりも答えを知りたくなった。
僕は、うずうずする身体をゆすった。
もう一度彼の方を見る。彼は目を開けて空をみて、時折太陽のまばゆさに目を瞬かせている。
伸ばされた彼の長い足は力が抜けていて、なにか大地と一体になっているような感じがした。
彼は何に笑ったのか。
そこは、ずっと背中を預けていられるほど気持ちいのか。
ここで見る以上の景色が見られるのか。
僕は堪らなくなって、ランドセルを下ろした。
彼の隣に、えいやっと寝転ぶ。視界がぐるりと回転した。
空までに邪魔するものが、なにひとつない。そこは、青と白だけのコントラスト。

「わああ」

僕の口から感嘆の声が漏れた。
学校の窓から、あるいはマンションの窓からみるのとは、まったく違う。
背中や首筋は草でちくちくとかゆかったけれど、それ以上に心地よさがやってくる。

「どうだ?」
「……いいね、悪くない」

隣からの声にこたえると、彼は僕が草の上に投げ出していた手を掴んだ。
心臓が大きくなる。どきどき、とか単に鳴るだけじゃなくい。ぐんっ、て大きくなる。ぐんぐんぐんぐん大きくなって、僕の胸はそれで詰まるようだ。
彼は僕の指をつかんで、雲の上で動かしていく。

「さっき笑ったのは、あれだ。見ろ、さかなみたいだろ?」

僕の指を掴んで、彼がその形を描き出す。

「本当だ」

僕は、家にいる金魚を思い浮かべた。
彼はそれだけを僕に教えると、またぼんやりと空を見つめ始めた。
手は触れ合ったまま、ぱたりと草の上に落ちる。
ちくちくと長い葉っぱが絶妙にくすぐったかったけれど、少しでも動かしたら最後、手を離されてしまうかもしれない。それが嫌で、僕はじっと耐えた。
隣から、少し汗の匂いがした。それと別に、なんだろう、すうっとするような鼻にツンとくるような、道ですれ違う大人の男の人がたまにつけている匂いもした。
それが何なのか僕はわからなかったけれど、無性にどきどきした。
何十分そうしていただろう、彼が不意に上半身を起こす。
手が離されて残念に思いながら僕も身体を起こした。
彼は少し鋭い目つきで、西の方角を見つめている。

「来るぞ」
「何が?」
「何がじゃない。お前が言ったんだろ、台風だ」
「あっ、そうか。そうだった」

すっかり忘れていた。僕は立ち上がって、ランドセルを背負い直した。
地面から身体を離すのがこんなにも名残惜しいものだったなんて、僕は知らなかった。

「おい、そのまま背負うな、土がついてるぞ。……と、もう遅いな」

彼が立ちあがる。僕はクラスでも背が高いほうで、この前の身体測定では百五十五を記録したのに、それよりも彼はもっと背が高かった。

「貸せ」

彼は僕の背中とランドセルの間に手を突っ込むと、わしゃわしゃと動かした。
おおきな手だった。

「く、くすぐったいよ」
「土だらけで帰ったら、心配されるだろ」
「そうかもしれない」
「くそ、奥の方がとれないな」

彼が僕の後ろに回って、ランドセルを下から持ちあげた。
勢いに前につんのめると、彼が慌てた様子で腕を回してくる。太くて、立派で、かたくて、筋肉がついていた。
腕を目視すると、彼の着ている白い長袖がめくれている。見える彼の左腕に刺青が入っていた。
うわあやっぱり不良だと思ったけど、彼の言動に恐ろしいところは今のところない。だから僕は怖いというよりも、その刺青を綺麗だと思った。
何かのうろこの様に見える。うろこの両端には、触れると痛そうなとげみたいな模様。

「……蛇?」
「違う、龍だ」
「龍……」

咆哮を上げる龍を思い浮かべて、似合う、と思った。彼は穏やかなのに、そのうちに激情を秘めていそうだった。

「頭はないの?」
「肩にある」

彼がりっぱな左肩を右腕でぽんと叩いた。

「見せて欲しいな」
「家に帰るんだろ」
「じゃあ次あったら見せて。またここへ来る?」
甘ったれた声が出て少し頬が熱くなった。
「ああ、最近越してきたばかりだが、いい暇つぶし場所になりそうだ」

僕は、ほっとして彼の腕を掴んでいた自分の指を離した。
思ったよりも強い力を込めてしまっていたらしい。彼の腕には赤く細い僕の指の痕が付いてしまっていた。
僕はいよいよ恥ずかしくなって、俯く。

「一人で戻れる、か?」
「戻れるよ」

二人で河原を駆け上った。遠くの空が暗くよどみ始めていた。
別れようと橋のところまで戻って、慌てて振り返る。
大事なことを、聞いていなかった。

「ねえ!」
「……?」

僕の声に、頭につけていたタオルを外しながら彼も振り返ってくれる。
襟足とは裏腹に、彼の頭頂部の毛がぺったりとしているのが笑えた。

「僕は燭台切光忠」
「光忠」
「貴方は?」

次にあったら、名前を呼びたい。僕はそう思って彼に尋ねた。

「大倶利伽羅だ」

おおくりから。
僕はその名前を口に出して、なんだか大切なものをひとつポケットにいれたような気持ちになった。
心の中で何度も繰り返す。

「大倶利伽羅。僕、今日初めて普通じゃないことをしたかもしれない」
「そりゃあ良かった」

彼は、少し離れた場所で目を細めて笑った。

「これからそういうこと沢山しろ。その方が、ずっと楽しいからな」

ぶん、と大きくタオルを振って、へたった髪の毛を彼が自らの手で乱した。
ふる、と頭を振る姿は猫みたいだった。
僕の好きな、けれどお母さんもお父さんも飼うことを許してはくれない、猫みたいだった。




家に帰ってランドセルを下ろす。
台風を理由に早く戻ったことを告げながら、お母さんにプリントを渡した。

「ありがとう。あら、それ……転んだの?」

部屋に戻る前に手を洗いに行こうとしたら、後ろから声を掛けられた。

「背中、汚れてるよ」

ぎくりとした。

「あーうん。……ちょっと、河原を歩いていてね」

僕は適当に答えをはぐらかした。
本当のことを言ったら、その人は危ない人じゃないのか、とか学校に連絡したほうがいいんじゃないか、とか嫌な顔をしながら言い出しかねない。たとえ嫌がられなくても詳細に話せといわれるはずで、僕はそうしたくなかった。
お母さんにはなんでも率先して話していたのに、不思議だった。
大倶利伽羅と会う前と後で、自分という人間がまるで異なるものになったようだ。

「あまり危ないことしちゃ駄目よ?」
「わかってるよ」

僕は手を洗ってランドセルを掴み、部屋に戻った。
カーテンを開けると、空はどんよりと暗くなっていた。そのまま見つめていると、ぽつぽつと雨が降り始める。気象を読むことができるという彼の言葉は、嘘じゃなかった。

「……おおくりから。早くまた会いたいな」

ガラスに手を這わせてつぶやくと、外気との温度差で窓がくもった。
大きくなっていた心臓は彼と別れてすぐにしぼんでしまい、胸の奥で縮こまっていた。
痛みを感じるのは、そのせいだ。




それから僕は、暇を見つけては河原に行った。
もちろん、大倶利伽羅はいつもそこにいるわけじゃない。
会えない日の僕は両肩を落としてとぼとぼとかえって、お母さんには不思議がられた。いじめでもされてるんじゃないの?と心配されたから、それだけは違うと言っておいた。
大倶利伽羅と会えた日の僕は、時間も忘れて彼と話し込んだ。
その多くは大した話じゃない。たとえば、

「――昨日は僕が学校で頑張ったから、好きなものを作ってくれるって言ってね」

と昨日の夕飯を伝えるような。
でも彼はつまらない顔なんかしないで、いつだって真剣に僕の話を聞いてくれる。

「お前の好きなものってなんだ?」
「なんだと思う?」
「当てられるわけないだろ。……から揚げ。肉じゃが。ラーメン。餃子。シチュー。カレー」
「ぶーっ、全部はずれ」

当てられないといいながらも当てずっぽうで人気メニューを出す彼ににやりと笑う。

「僕、かにたまが好きなんだ」
「かにたま?」
「卵にカニとネギを入れて、丸く焼いてご飯に乗せるんだ。上からあんをかけてアツアツで食べる」

昨日食べたものを思い描くと、昨日食べたばかりなのにまた食べたくなった。

「それは天津飯じゃないのか?おいしそうだが」
「てんしんはん?なの?かな?」
「俺も良く分からないが」

僕と大倶利伽羅は、どうでもいいことで互いの知識を確認しあった。カニたまと天津飯の差は、ご飯があるかないかくらいらしいことが後日判明する。
僕にとって、大倶利伽羅は今まで周りにいなかった人種だった。僕の知らないことを沢山知っている。
けれど大倶利伽羅もまた、

「お前は物知りだな」

と言うのだった。

「生活圏が違ったからじゃないかな」

大倶利伽羅は田舎からやってきたという。
周囲にあるものも、教わったことも、彼と僕ではまるで違っていた。
昨日食べた物でも、好きなものでも嫌いなものでも、どんな話題でも僕は彼となら新鮮な発見が出来た。

「ザリガニって、理科で習ったけど本物は見たことがないんだ」

というと彼はたいそう驚いて、僕を川に連れていってくれることになった。
いつもの河原は綺麗すぎてザリガニがいないらしい。
少し電車に乗って森の近くへ行こうと誘われたから、僕はお母さんに了承を取らなければいけなかった。

「お前の家は厳しいだろう」
「厳しいけど、うまく扱う方法ならわかってきたから大丈夫じゃないかな」

彼に出会ってから、僕は少し親に対してずるくなったと思う。

「どうやって伝えるんだ?」
「友達と森に行くってまず伝えて心配させる。その後、大人が一緒だから平気だという」
「この策士」

こつん、と大倶利伽羅はげんこつを作ってぼくのこめかみに触れてきた。
でも彼はとても嬉しそうだった。僕と遊びに行くのを楽しみにしてくれている。そうわかって、僕も嬉しくてたまらなくなった。
家に帰って即その方法を試すと、少しばかり考えた後でお母さんは大人もいるなら、まあ……とやはり許可を出してくれた。
大倶利伽羅は、友達であっておとなだから、嘘じゃない。




ころころ、とべっこう飴を口の中で転がす。
彼がくれたそれは確かに僕の目の色に似ていて、甘かった。

「おおふりはらは、ひふふなんだい」

電車の窓から飛んでいく景色を見ながら尋ねてみた。

「飴を食べ終わってから喋れ」
「大倶利伽羅は、いくつなんだい」
「言わなきゃダメか?」
「知りたいからね」
「……二十四」
「僕よりも長生きだ。おじいさん」
「誰がだ馬鹿」

僕と一緒に窓の外を見ていた大倶利伽羅は、少しだけうつむいた。

「お前はいくつなんだ?」
「僕、言ってなかったっけ?」
「小学校高学年だろうってことだけは分かる」
「あはは、十二だよ。今年で卒業して中学生になる」

正確に言えばまだ誕生日を迎えていないから十一なのだけれど、僕はひとつだけ背伸びをした。その一つが大きく思えたから。
タタン、タタン、と電車が音を立ててトンネルに入った。きいんと耳が詰まる感覚があったかと思うと、あっという間にその長い筒を抜ける。

「もうすぐ着く」

僕らを乗せた電車は、大倶利伽羅の言葉から少し時間をおいてから、人のほとんどいない駅にたどり着いた。
駅の周りには木が生い茂っている。
二度乗り換えて二時間ほど電車に乗るだけでこんな場所につくなんて、僕は初めて知った。
駅を出ると、大倶利伽羅と初めて出会った日のような、真っ青な空が一面に広がっていた。

「すごい」
「だろう?ザリガニの沢山いる川は、ここから歩いて二十分くらいだ」
「移動だけでくたくただね」
「おぶってやろうか?」

く、と口角を上げて大倶利伽羅が笑うので、僕は平気だといってランニングシューズの紐を結び直した。
それを待って歩き出す大倶利伽羅の足は長い。多分、普段の彼の速度じゃおっつけなかっただろう。でも、彼は僕とあわせてゆっくり歩いてくれる。
お父さんとは違う。
お父さんは、ゆっくり歩くのが面倒だといってすぐに僕を抱えたり待っていろといって用事を済ませてくるだけだ。
大倶利伽羅は違う。
大倶利伽羅は、他の大人とは、違う。
僕は大倶利伽羅の熱を隣に感じながら坂を上った。

「大倶利伽羅、あつい」

長い坂だった。日差しに照らされて、頭がやけどしそうだ。僕は息をついて膝に手を置いた。

「自販機で飲み物を買おう」

大倶利伽羅は少し行ったところに見える自販機で清涼飲料水を買ってきてくれた。
手渡されて、うっと引いてしまった。

「悪い、嫌いだったか?」

大倶利伽羅に対して誤魔化すのは嫌だから素直に頷く。

「どうしてだ?」
「なんだか薄くない?塩辛い気もするし」
「ああ、それは普通の時に飲むからじゃないか?汗をかいたときに飲むとまずくはないぞ。飲んでみろ」
「……分かった、飲んでみる」

大倶利伽羅に促されて、僕はキャップを開けてぐびっと飲みこんだ。
喉に流れ込んできた液体は、確かに今までそれを飲んだ時よりもずっと美味しく思えた。

「……」

無言になった僕に、大倶利伽羅は穏やかに笑った。
彼はいつも僕の知らないことを、こうして優しく教えてくる。




ぱしゃ、と水の中に足を踏み入れる。
爪の先から、一気にびりびりと冷たさが襲ってきた。

「大倶利伽羅、凄い冷えてるよこの水!」
「ここ一帯は、木で陰になってるからな」

ざぶざぶと浅い川を歩いているうちに、水温になれてくる。
する、と足首を何かがなでた。

「わあうっ」
「なんだ?」
「なんだろう、脚を今……あっ、まただ」

中腰になって水の中を覗きこむ。するすると足首をなでているのは魚だった。

「魚がいる」
「そりゃあ、いるだろ。目的はザリガニだ、探せ」
「浅いところにいるんだっけ」
「岩場の影とかにもいるぞ」
「僕はこっちを見るから、大倶利伽羅はそっちね」

大倶利伽羅と手分けして川を動き回る。岩と苔の陰になった場所で、何かがうごめいていた。暗くて確かではないけれど、赤い気がする。きっとザリガニだ。
僕は、そろそろと近づいて手を伸ばした。つん、と触れた瞬間、

「いった!」

指先に何かが引っかかった。
ぴりっ、と痛みが走り、僕は手をぶんと大きく振り上げる。
はずみで、指先に引っかかっていた何かが放物線を描き空高く舞い上がった。

「おお」

大倶利伽羅がそれを追って顔を上下させるのが視界の端で見えた。
ぽちゃん、とその何かが川に潜って水面に波紋を作った。

「いたい」
「大丈夫か?」

僕が指をさすっていると大倶利伽羅が近寄ってきた。
血は出ていなかったけれど、関節のあたりが赤くなっている。

「今のってザリガニ?」
「たぶんな」
「凄く痛かったよ」
「俺も昔に挟まれたことがある」
「ザリガニを取るのって命がけだね」

ふう、と息を吐くと大倶利伽羅の口元がゆるむ。

「そうだな、命懸けだ」

優しい顔で、大倶利伽羅は僕の頭をなでてきた。

「いくつか俺が掴んで持ち帰ってやる。お前の家じゃ飼えないだろうから、うちでな」
「大倶利伽羅の家、いってもいいの?」

彼の言葉からそこまで推察して尋ねる。

「大したことはないワンルームのアパートでいいならな」

アパートがぼろっちかろうがなんだろうが、僕が大倶利伽羅の歓待を断る理由にはならない。いっそ段ボールハウスだってかまわない。

「折角だから、泊まりたいなあ」
「折角ってなんだ?」
「友達が外泊は普通の奴がやることじゃないっていうから。大倶利伽羅がいつも言ってくれるだろう?」
「普通じゃないことを、好きなだけしろ、って?」




一度はバケツの底が見えなくなるくらいザリガニを取ったのだけれど、大倶利伽羅がこんなには飼えないというから持ち帰ってもらうのは一匹だけにした。一番つよそうで恰好いい、大きなハサミを持った奴。
もしかして、さっき僕の手を挟んだ奴かもしれない。
大倶利伽羅と手を繋いで来た道を戻る。坂を上る時に引っ張って貰うと、楽ができた。
駅に向かっていると、少しにぎやかな場所がある。
そこで、おばさんとおじさんにじろじろ見られた。大倶利伽羅と同じくらいの年のサラリーマンが、なんだか小ばかにするような目で彼を見ている。
僕と、いるからだろうか。

「大倶利伽羅は僕といて楽しい?」
「どうしてそんなことをきく」
「だって、」
「さっきすれ違ったやつの視線が気になったのか。俺は、楽しくない奴とはいないし、無駄な慣れあいは嫌いだ」

うぬぼれてもいいのだろうか。

「お前といるのは、俺の意志だ」
「ありがとう、大倶利伽羅」

大人の彼と子供の僕がこうしていつも一緒にいるのは、多分他の人から見ると普通じゃないのだろう。お父さんやお母さんの年の頃の人なら、保護者と子供という風にみられるのだろうけれど、彼と僕では。
大倶利伽羅のような年頃の人は、同じような年の人と歩くのがふつうだ。
そう思う僕を勇気づけてくれるのは、大倶利伽羅の言葉だった。
それに僕は、彼が僕の保護者と思われていたらいたで憤慨する。僕は、彼と対等でありたいんだ。僕にとって大倶利伽羅が特別であるように、大倶利伽羅にとって僕も、特別な相手であってほしい。
だから、早く彼と似合いの大人になりたかった。
彼の隣を立派にあるいて、胸を張ることができて、さっきみたいに嫌な視線を送ってくる人がいたら、どうしてそういう顔をするんだい?僕達、なにかおかしいかな。そう言って男をたじたじさせられるような大人になりたい。
牛乳を飲もう。
僕はつないだ手に力を込めた。


大倶利伽羅の家に泊まりに行くことになったのは、それから一か月ほどしてからだった。お母さんを勉強のための合宿だと言って説得するのに長くかかってしまった。
大倶利伽羅の家に緊張しながら入ると、玄関に大きな水槽があった。
中にいたのは、あの時のザリガニだ。

「ザリガニ、元気そうだね。この子って、どれくらい生きるのかな」
「調べてみるか?」
「僕が大きくなっても元気だといいんだけど」
「善処はする」

大倶利伽羅の言葉に、大きくなるまで僕との関係を続けてくれるつもりだというのが分かって嬉しくなる。
スキップする勢いで靴を脱いで、部屋に上がった。
他人の家に行くのは、ひさしぶりだ。

「大倶利伽羅のにおいがする」
「臭いか?」

眉間に皺を寄せる彼に、僕は頭を振った。

「違うよ! 友達の家にいくと、そこの家の匂いってあるだろう? 大倶利伽羅の家は、僕の知ってる大倶利伽羅の匂いだったから」
「……俺の匂いって、どんなだ」

ちょっと甘いような、すうっと鼻の奥にくるような。男の人の大人の匂いのような、もっと幼いような。初めてあった時よりも、僕はいろんな彼のにおいを嗅ぎ取っている。

「難しいなあ」

僕はそうつぶやきながら大倶利伽羅の隣に座る。首を伸ばし近づいて、くんくんと鼻を寄せた。

「よせ、くすぐったい。お前、髪がっ……」

僕のぴょこぴょこ跳ねている髪が首元を掠めたらしい。
大倶利伽羅の身体が僕のそばで震える。

「ふふ……」

僕は楽しくなって、ぐりぐりと頭を大倶利伽羅の喉元に擦りつけてやった。

「やめ、やめろって……っは、」

気づけば大倶利伽羅はソファの上に転がって、半分涙目だった。
ばくん、と心臓が鳴った。むくむくと心臓が大きくなって、喉の奥が苦しくなる。
近頃僕は、大倶利伽羅のことを考えるとよくこうなる。
初めてあった時にも感じたものだけど、それがどんどん強くなっている。心臓が膨らんで、胸の奥が苦しい。

「ったく、この」

僕が息苦しさに動きを止めると、今度は大倶利伽羅の大きな手が僕の腰を掴んだ。
長くて綺麗な指がそこで曲げられ、縦横無尽に動き出す。

「うひゃ、」

僕は間抜けな声を出して身をよじった。やめてやめてと叫ぶけれど、彼はくすぐるのをやめてくれない。大倶利伽羅は時々いじわるだ。
二人でソファの上でしばらくもつれ合った。お互い、はあはあと疲れて脱力する。
僕の上に大倶利伽羅が乗っていて、その重みがなんだか気持ちよかった。
ふれあうところから熱を感じる。

「おおくりから」
「……光忠」

大倶利伽羅が身体を動かすと、きし、とソファが鳴った。
僕のうえに彼の影が落ちて、少し暗い。くらいけれど、大倶利伽羅の表情はよく見えた。金色の目が、うるんでいる。
あ、べっこう飴。
僕は先日初めて大倶利伽羅に食べさせてもらった飴の色を思い出した。僕は確かにそれが自分の目に似ていると思ったし、彼も僕の目をそれに似ているといった。
けれど、今の彼のほうが。ずっと。

「大倶利伽羅?」

大倶利伽羅が唇を舐めて、ごくりと唾液を飲み込んだ。
ち、ち、という時計の針が動く音が聞こえてくる。
大倶利伽羅の顔が近づいてきて、吐息が僕の額を濡らす。
その時、玄関のほうからカタンと音がした。

「……っ、悪い。重かったろう」

大倶利伽羅が、はっと目を見開いた。

「たぶんザリガニのやつだ」

僕の上からどいて玄関に向かう時に見えた彼の目は、琥珀色に戻っていた。




大倶利伽羅が夕飯に出してくれたのは、かに玉だった。

「好物を覚えていてくれたんだね」

口に運ぶとお母さんの作るのとは違って、だしが効いていた。お母さんのは甘いけれど、大倶利伽羅の作るたまごやきはどちらかというと塩辛い部類らしい。

「あ、この餡も、飴みたいな色をしているね」
「確かにそうだな」

くすぐりあいをした後から、大倶利伽羅の口数が明らかに少なくなっていた。
いつもそれほど沢山喋るわけじゃないけれど、何か僕が失敗をしてしまったんだろうか。だから怒っているんだろうか。少し不安になる。

「ねえ、大倶利伽羅、僕何か……」
「……風呂へ入ってくる」

ご飯を食べた後、僕の問いかけを遮るようにして大倶利伽羅はすぐに席を立った。
僕と一緒にいたくないんだろうか。悲しい気持ちになってしまう。
でも帰れと言われないだけ、ましだ。
友達が女の子の家に行ったとき、あんまり怒らせて泣かせてしまった話を思い出す。彼は確か途中で家からたたき出されたはずだ。
大倶利伽羅は大人だから、僕を叩き出したりはしないだろうけれど。
僕はコップにお茶を入れると、それを手に取った。
しばらくすると、洗面所からお湯とせっけんの匂いが漂ってくる。大倶利伽羅からたまに漂ってくる甘い匂いはこれだったのか、とわかった。
好きなにおいだ。
目を閉じて、もっともっとその香りを吸い込もうとした瞬間。
ことり、と僕はお茶の入ったコップを手で打ってしまった。ぐるん、と回ったそれが倒れ、机にお茶が滴る。あっと言う間に僕のシャツがお茶を吸い込んだ。
慌てて、先ほど廊下を通る時に見たお手洗いへ向かう。
ふかふかした水気を取るじゅうたんを踏みしめると、この手洗い場を挟んで左がお風呂だと気付く。
すりガラスになった向こう側で、大倶利伽羅の肌色が動いていた。
僕はひとまずつま先立ちになった。シャツの裾を掴んで、手洗い場の水を勢いよく出しながらお茶色になった部分を洗う。
絞りながら手洗い用の石けんをそこで泡立てると、徐々に茶色が落ちて行った。
ほっとしてから、僕は左右を見渡す。
この手とシャツをふくタオルが、ない。

「ええと、」

迷っているうちに、シャツから滴った水が腹をぬらしていく。冷たい。
僕は大倶利伽羅に尋ねようと、すりガラスの引き戸に手を掛けた。
ことん、と小さな音がして扉が開く。
シャワーが床を打ち鳴らす音が響いていた。
少ししか開いていないのに、そこからむわりと蒸気が飛び出してくる。

「……はっ、」

ゆげには、大倶利伽羅のにおいと石けんの匂いが混じっていた。
肝心の彼の姿が、白くて見えない。僕は顔を近づけて目を凝らし中を覗く。彼はバスタブのふちに腰を掛けているようだった。

「はあ……」

大倶利伽羅は、僕が洗面所にいるのに気づいていないみたいだ。
流れる水のせいだろうか。いや、何かに没頭しているからかもしれない。彼は手元を見つめたり目を閉じたりで、こちらに気を配るようすがない。
いつもの大倶利伽羅なら、とっくのとうに近づいた僕の気配を感じ取っているはずなのに。
何をしているのだろう。

「あ……あっ……」

シャワーの音に混じって、大倶利伽羅の声が聞こえてきた。
いつもの声と違う。低く穏やかで、僕の耳に優しく聞こえるあの声とは違う。
上ずって、何かに必死なような声だった。
蒸気が徐々に薄くなって、大倶利伽羅が肩を揺らすのが見えた。見事な龍の頭があらわになっている。綺麗に筋肉の見える脇腹に、まだ泡がついていた。
身体を洗っているのだろうか。
でも、それにしては彼の指先は一点から動かない。
股の間から動かない。
洗っている、にしては何か不思議な手つきで。
大倶利伽羅は、おちんちんを揉んでいるように見えた。

「ぁ、あ、あ……」

柔らかそうな唇が酸素を求めて開かれた。そこから、少し高い声が漏れ出る。
それは、シャワーに少しもかき消されないほど大きくなっていた。
蒸気が消えて彼の顔がよく見える。
いつもふわふわな横髪が頬や首にしっとりと張り付いていた。襟足の赤が鮮やかだ。
そして横からだけれど見えた瞳は、先ほどくすぐりあいをしていた時と同じ、べっこう飴色になっていた。
ころん、と口の中にあったあの存在を思い出す。
舐めたい。
舌を動かすと、上の歯の後ろに触れるだけの感覚がしてくちがさみしい。

「く、……ぁ、ふ……あ、んっ」

身体を揺らす彼から、目を離すことが出来ない。
褐色の肌が、シャワーからの水をはじく。
つるりとした肩に触れてみたい。
気づけば僕は、もじもじと太ももを擦り合せていた。
そうしていないと、おかしなことになってしまいそうだった。

「……、ぃ、くっ」

大倶利伽羅は切なそうな声を出して、項垂れるようにバスタブの中へうずくまった。
溢れたお湯が、どじゃあ、と排水溝へ流れ出す。
僕は、はっとして開けようとしていた扉を閉めた。
音を立てないように細心の注意を払って閉めた。
見てはいけないものを、見てしまったんじゃないかと思って。




体育の後で服を着替えていると、斜め後ろの席で何人かの男子が盛り上がる声が聞こえてきた。
初めこそひそひそ話をしていたようだったが、途中から声が大きくなった。むしろ誰かに知って欲しいんじゃないかっていうくらい。
話題は何だろうと耳だけを傾けていると、体操服を脱いだ肩を掴まれた。

「燭台切は、こういうの興味ないのかよ」

振り向かされて、煩わしさを感じつつ振り返る。
斜め後ろの席を囲んで男子が数人輪になっていた。その机には数冊の雑誌が置いてある。
どれも雨風に濡れたように萎れていた。

「どこから持ってきたんだい、そんなもの」
「学校の裏の溝」
「捨ててあったらしいぜ」

皆それを興奮ぎみにめくっては、じろじろと雑誌に載る露出度の高い女性を眺めている。
女性は一様に下着や水着姿で、胸の先端が見えそうになっているものもあった。

「僕は興味ないな」

電車の吊り広告から強引に視線を外したり、コンビニの成人向けのスペースの前からそそくさと立ちさってしまうあの時のような気持ちになった。
自席に置いていたシャツを掴み、頭からかぶる。

「うわっ、これベロ出してチューしてる」
「ばっか、知らねえの?ディープキスって言うんだぜ」

男子たちはいよいよ隠す気がなくなったのか大声で騒ぎ始めた。
僕もディープキスくらいなら知っている。舌と舌を絡めるキスのことだ。ただ、実際にそんなキスを見たことはない。

「この前ドラマでやってたの見なかったのかよお前ら」

僕のお母さんは、なにかのはずみでそういう場面がTVから流れ始めたら、すぐにチャンネルを回してしまうひとだ。
とはいえ生々しさにぎくりとしてしまうのは確かなので、少し助かってもいる。
でも今は、ディープキスというものが実際どういうものなのか、僕は少し知りたかった。
ボタンを留めながら、再度斜め後ろを振り返る。
大きく開かれたページには男女が載っていた。女のひとは健康的な肌色で、唇だけは薄く赤い鮮やかな色だ。下唇だけふっくらとしている。
まるで大倶利伽羅のように。
あ、まただ。
脚の付け根のあたりからお腹にかけて、ぐんと熱くなる。もじ、と太ももが動いた。大倶利伽羅がお風呂に入っているのを覗いたあの時と同じ。

「……キスって、どんな感じなのかな」

身体にともった熱を散らすために、僕は疑問を口にした。

「俺、今の彼女としたぜ、この前」
「まーじかよ!」

僕を含めたキスしたことのない男子たちが興味津々で身を乗り出す。彼はそれに偉ぶって胸を張った。

「柔らかくて、抱きしめたらいい匂いがするんだ」

模範解答の様な事を言った。
周りはそれで納得したのか、口々にうらやましがる。
そうしていると次の授業の先生が入ってきた。雑誌を拾ってきた数人が慌ててそれを隠し、まだ着替えていない男子たちが急いで机に戻っていく。

「本当は、感触なんかわかんなかったんだけどな。匂いはいいかんじだったけど」

ひそ、と隣の席の、彼女とキスをしたという彼がぽつりと呟いた。

「どうして僕にそれを?」
「いや、キスする日が近いのかなって思ったから」
「まさか。どうしてそう思ったんだい?」
「燭台切恰好いいし、彼女いるんだろ?」
「いないけど」
「えーでも、皆噂してるぞ?燭台切は年上の彼女と遊ぶので忙しくて予約が取れないって」
「どこからの噂だい、それは。いないよ、彼女なんて」

大倶利伽羅と遊ぶために断っていたのに尾ひれがついてそういうことになったとしか考えられない。

「キスの感触って、分からないものなんだね」
「うーん、なんか胸がいっぱいでさ」
がしがし、と彼は頭を掻いた。
「ちゅって、するじゃん。なんかふわふわして。あれ、今くっついたのかな?みたいな。……次するときは、もっと気にしてみよう、うん」

自分の言葉に納得した様子で、彼は引き出しを開けて教科書を取り出した。




大人の彼女なんていないからね。そう言って久しぶりにクラスのみんなとドッヂボールをした。
その後、いつもより遅くなったけれどまだいてくれれば、という気持ちで河原へ向かう。
遠目から大倶利伽羅が寝転んでいるのが見えた。
橙色に染まった空を見ている。

「光忠か、今日は遅かったな」

近寄ると、彼は腹筋を使って身体を起こした。

「遊びに誘われて。さっきまでドッヂやってたんだ」
「ドッヂボールか。懐かしい」
「大倶利伽羅もドッヂボールとかしたりするんだ?」
「そりゃ、子供の時に誰もが通る道だからな」
「じゃあ、もう僕やるのやめようかな」
「どうして」
「だって、大人になりたいから。大人はドッヂしないなら、しない」
「競技のドッヂボールなら、大人だってやるだろう。普通かどうかで決めるのは、ナンセンスだ」
「そうかもしれないけど」

しばらく大倶利伽羅の傍でしゃがみ、いつものように景色を眺める。
すると、お腹のあたりがしくしくと痛み始めた。
ぐうう、とうなるような音。痛みは空腹の痛みだった。

「腹の虫なってるぞ。何か買って食べるか?」
「買い食いはだめだっていう校則がある」
「じゃあ食べないのか?」
「いや、食べるよ。こういう時しか食べられないものを食べようかな」

僕は大倶利伽羅を連れてコンビニに入った。
レジの近くにあるスナックコーナーの前に陣取って、どれにしようか悩む。

「早くしろ。何で悩んでるんだ?」
「もうちょっと待って」

ポテトフライも、おでんも魅力的だったけれど、僕はその二つじゃないものを選んだ。

「これ、これがいい。一緒にたべよう」

からあげ棒を指さすと、大倶利伽羅が店員にそれをひとつ出してくれと頼んだ。
お母さんといる時には、こういうものは身体に悪いからといってあまり買ってもらえない。
外に出て早速、ああんと大きな口を開けて頬張る。
濃い塩の味がして、じゅわっと肉汁がくちいっぱいに広がった。美味しい。

「大倶利伽羅もひとつ食べて」

残ったひとつを差し出す。

「いいのか?」
「分けられると思ったから選んだんだ」
「じゃあ、ひとつもらおう」

僕が差し出した棒に、大倶利伽羅がかがんで顔を近づける。
さら、と長めの髪が揺れた。彼は少し面倒くさそうに長い指で髪を耳にかけた。
いつもは見えない左側の耳が見える。少し角張った耳だった。上半分が平均より大きいかもしれない。形は綺麗だった。
耳を辿った大倶利伽羅の指先が、そのまま僕の手に触れた。

「……ん」

大倶利伽羅のふっくらした唇が開いた。
舌が見える。赤い。彼の髪の襟足みたいな赤ではない。臙脂と桃との中間のような色。
厚みのあるそれは濡れて少し光り、表面はざらついて見えた。
白い歯が、かぷりとから揚げに食らいつく。ぐい、と引っ張られて腕ごと大倶利伽羅のほうへ近寄る。
彼の腕が僕の腕を押さえた。
大倶利伽羅のくちは大きくて、からあげをひとつ丸ごと口へ入れてしまう。
彼はながくそれを味わってから、喉仏を上下に動かした。

「……悪くないな」
「そうかい」

僕は変な汗が滴ってくるのが分かった。
大倶利伽羅の唇をみて、体育の後で見た雑誌のディープキスがよみがえったのだ。
彼もあの雑誌のように、舌と舌を重ねてキスするのだろうか。隣の席の男子が模範回答したように、いい匂いがするのだろうか。いや、キスするくらいの距離のにおいなら僕は既に知っている。この前も嗅いだし今も漂っている。いい匂いだ。
でも唇の柔らかさは知らない。
ちゅっ、とした一瞬じゃあわからないといっていた感触だけれど、僕は知ってみたい。大倶利伽羅と、キスをしたい。
べろとべろを合わせて、いやらしく絡めてみたい。

「光忠、油がついている」
「……っ!」

こし、と大倶利伽羅の親指が僕の唇に触れた。
彼は固まる僕に気づかないままふところからティッシュを探りだして、それに指先を擦り付ける。

「そろそろ戻らないと、母親が心配するな」

橙色からさらに変化して暗くなり始めた空を、大倶利伽羅が見上げた。




お風呂に入った僕は、お父さんとお母さんにおやすみの挨拶もしないで部屋に戻った。
電気を消してベッドへもぐりこむ。
身体を丸めて目を閉じた途端、大倶利伽羅の唇が思い浮かんだ。
大倶利伽羅とのキスは、一体どんな感触なんだろう。
舌と舌を合わせると、どんな味がするんだろう。
触ってみたい。キスしたい。

「……これじゃ、駄目かな」

僕はうつぶせになって、枕を手繰り寄せて顔を押し付けた。ぱふん、と枕の中にあった空気が抜ける。
柔らかいけれど、冷たい。
こんなのとは、きっと全然違うのだろう。ああ、キスをするって、どんな感じなんだ。
大倶利伽羅の唇を想像しながら、僕は枕をくちびるで噛んだ。ちゅ、ちゅ、と彼の唇だと想定してキスを重ねる。

「おおくりから……はあ、はあ……」

そうしていると、じわじわと股の間に熱がせり上がってきた。もじもじと腰が揺れる。
内股を摺り寄せたけれど無駄だった。
あの時はもどかしいだけだったのに、なぜかおちんちんがひりひり、じんじんし始めた。
僕の手が動いて股間を掴む。

「……んっ」

水着姿の女の人が思い浮かんだ。殆どハダカの、あの雑誌の女の人。
でも、それはすぐに別のハダカにとって代わった。

「あっ、うそ。おおくりから」

女の人は水着を付けていたけれど、僕の想像の中の彼は一糸まとわぬ姿だった。肩幅がひろくて、首も太くて、でも腰は薄くて。
やけに真実味がある。そりゃそうだ、僕はお風呂に入っていた大倶利伽羅をこの目で見ているのだから。
大倶利伽羅の家に泊まった時のハダカを、僕は強く思い浮かべた。
すらりと長い手足。バスタブのふちに腰掛けた、薄い肉のついた尻。筋肉のついた脇腹と、そこを流れ落ちる透明な水。びくり、とそれが揺れて垂れ落ちた。彼はのけ反って綺麗な喉仏をさらしている。その喉から振り絞られ声が唇を震わせる。
あの時の、溶けだしたべっこう飴のような色の目が綺麗だった。

「い、たい……いた……」

僕はあまりの股間の熱に尻を持ち上げた。足を折り曲げて、寝間着の中に手を突っ込む。

「……なんだ、これ」

いつもふにゃふにゃの僕のおちんちんは硬くなっていた。
ぴんと突っ張って、上を向いている。
病気かもしれない。

「う、ああ」

どうすればいいのかわからないけれど、手で触れると痛みが少しましになった気がする。
大きくなったおちんちんを、僕は手で滅茶苦茶に揉んだ。大倶利伽羅の裸を想像しながら、揉んだ。
先ほどまで痛かったのに、おちんちんからの刺激が気持ちよくて手が止められなくなる。

「きもちい、きもち、いいっ」

内股が跳ねた。お腹がびくびくして、おちんちんもぶるぶると震えた。

「はーっ、はーっ」

ごしごしとおちんちんを擦っていると頭の奥がぼんやりとしていく。
大倶利伽羅のハダカ。
キスしたい。
べろとべろ。
ハダカ。

「ん、う、ああ、おおくりからっ」

ちかちかと目の前に星が散った。だら、と口の端からよだれが垂れ落ちる。つま先から頭の芯までがしびれるような感覚がして、身体がこわばった。ぎゅうっと身体を丸める。
息をついて、僕はベッドにどうと身体を預けた。

「はあ……はあ……」

肩で息をしていると、おちんちんと揉んでいた手が何かで濡れているのに気づいた。

「なん……?」

漏らしたかと驚いて、半分ずれた掛布団を跳ね上げる。
ベッドの上で胡坐をかいて手を開いた。
ぬとぬととしたものが、おちんちんを擦っていた手についている。
おしっことは違うどろりとしたものだった。生臭いような、変なにおいがする。

「なんだ、これ」

なんだか汚らしくて、僕は立ち上がってティッシュを乱暴に取った。
ごしごしと手を拭いた。股もそのどろっとしたもので少し濡れていたから拭いた。
手に鼻を近づけると、やはりまだへんな臭いがした。

「病気?」

顔をしかめて、なんだか怖くなって僕は布団をかぶり直した。
明日、パソコンで調べてみればいい。そう思って不安な気持ちを先延ばしにして寝た。お母さんにもお父さんにも、相談できないことの様な気がした。




本当に病気なのか。
知るのが怖くて、僕は数日それが何なのか調べないまま過ごしてしまった。
体調に不良はなかったのも一因だ。
次にまたああならなければいいんじゃないか、このまま放っておいてもいいんじゃないか。
僕がそう思い始めた時だった。

「なんだ、お前まだなのかよ」

また斜め後ろの席の男の子を中心に男子たちが盛り上がっていた。

「ちんちんから白いのが出たらオトナなんだ」

振り向くと、誇らしげに彼は胸を張っていた。

「燭台切も興味あんのかよ」
「いや、うん白いのって、」
「習っただろ、シャセー」

それを聞いて、僕はああと思った。
あれは四年生の時だったろうか。
女子と男子とが別々に授業をするということで集められ、女子だけが保健室へ行ったのが不思議だった。戻ってきた時、彼女たちはやけにそわそわしていた。男子が何教わったんだよと聞いても、はぐらかすばかりだった。普段男子のように振舞っている女子は特になんともないようだったけれど、その日を境に女子の男子に対する態度は急速によそよそしくなった。
そしてその距離感が、もう埋められない溝となったのだ。
僕達もあの時、これから大人の男になるんだよと言われて、赤ちゃんをつくる仕組みを学んだ。男の子のおしべが、女の子のめしべと合わさって――。精子。卵子。射精――。
ああそうか、あれが射精なんだ。
あの時、生々しい話は少しもなかった。ことばだけで説明されるものと、本当に経験するそれでは天と地ほどの差がある。

「どうやったら出るかって?そりゃあ――」

男子たちが話を続けている。
ちんちんを擦って、大きくして、出す。
その話を聞いて僕は気づいた。あの日、お風呂場で身体を揺らしておちんちんを触っていた大倶利伽羅もまた、射精をしていたんだって。
ぞくっ、とあのむずがゆい感覚が内股によみがえってきた。
むわ、と燃えるような体感温度。

「っ、」

僕は太ももの上で拳を握りしめた。
おちんちんが硬くなっている。まずい、こんなところで。射精は、大人の証拠だけど、ところかまわずやるものじゃないはず。
それに、普通男は女のことを考えてこうなるものだ。
なのに、僕は。
必死で思い描いてしまった大倶利伽羅のハダカを頭から追い出そうとする。
前のめりになりながら、片方だけの目でぐるぐると教室を見つめた。
なにか。なにか、気がまぎれそうなもの。

「ふうっ、ふうっ」

まず僕は机の木目を見た。でもその色が大倶利伽羅の肌色みたいで駄目だった。
こんどはそこから移動して、黒板を消している女の子の背中を見た。また駄目だった。彼女の髪の長さはちょうど大倶利伽羅と同じくらいで、彼のうなじを思い出してしまう。
ちくしょう。
僕は突っ伏して身体を揺らした。そうして息を吐きながら、今度は首を動かして外に目を向けた。
青々しい空に、はっとする。
僕はその綺麗さに目を奪われて、ようやく気を紛らわせることができた。
開いたノートに、ほっぺが擦れる。

「おおくりから」

と、初めてであった日の真っ青を思い出して、僕は罪悪感に襲われた。
大倶利伽羅のハダカで射精をするのは、大倶利伽羅には絶対に言えない『普通じゃないこと』だ。
いつものように『別に普通じゃなくたっていいだろ』とは絶対に言ってくれないと推測できるし、確信があった。
青い色を見ていると、なぜか涙があふれてくる。
僕は誰にも見つからないように、ぐし、と目を指の背で擦った。




橋のらんかんから河原を覗き込む。
近頃、大倶利伽羅は週に四度はそこにいる。僕と出会った初めのころは週に二度いるかいないかだったのに、随分増えた気がする。
今日もいつもと同じように空を眺めて、時折ごろごろと体制を変えたりしているのが見えた。
もしかして僕を待ってそこにいるのかもしれないという気持ちと、そんなわけないだろうという気持ちがせめぎあう。
僕がいなくたって、大倶利伽羅は悲しまないさ。
単にあの河原が気に入っただけさ。
自分で結論付けると、悲しさに目の奥が痛くなった。
今すぐ河原を降りて傍に行きたい。けれど、僕は行っちゃいけない。
橋を渡り切って、僕は団地まで真っ直ぐ駆け出した。後ろを見ないで駆け出した。



あれが射精をするということで、あんなに気持ちいものだと分かってから、僕は何度も夜におちんちんを出して擦った。一度は、笑顔が可愛いなと思っていたクラスの女の子を思い浮かべて触ってみた。けれど、ちっともうまくいかなかった。
僕は勉強のために与えられていたパソコンを使って、男の子が持ってきていた雑誌よりも凄いものを求めた。
女の人の裸よりも、男の人の裸を検索したときの方が興奮した。
自分でいじって出すことをオナニーとか自慰とか言うこともパソコンで知った。
僕が変なサイトばかり検索しているとお母さんやお父さんにばれないように、履歴の消しかたもちゃんと覚えた。パソコンの授業があるのはありがたかった。僕が男の人のハダカを検索していることは、今日までばれていない。
そしてそんな中で何よりも興奮したのが、検索した男の人に大倶利伽羅の裸を重ねることだった。
おちんちんを握って擦りながら、彼がこちらに足を開いている場面を思い浮かべるのだ。
すると、僕のそれは痛いほど強く勃起した。

「んっ、あっ、」

今日も僕は布団の中でずっと大倶利伽羅のことを考えている。手の中のおちんちんがびくびくと跳ねたら合図だ。
大倶利伽羅の唇にキスして、舌を絡めて、僕はおちんちんから精子を出す。
僕は、大倶利伽羅とセックスしたい。
僕は大倶利伽羅のおしりに、僕のこれをいれたい。
だから僕は、大倶利伽羅にもう会っちゃいけない。




橋の上から十数分だけ大倶利伽羅を見て、走って家に帰る。
それだけをするようになって、しばらく経った。
大倶利伽羅は変わらず週に四度は河原にいる。
その日も僕は河原に寝そべる大倶利伽羅を橋の上から見つめていた。大倶利伽羅はこちらを見ることがないから、僕が切り上げなければいつまでだって気づかれないで見つめていられる。
もう二十分ほど見つめていたけれど、今日は当番がなくて早く帰ってきたから延長してもいいかもしれない。
さらさらと風が吹く中で、僕は橋のらんかんに身体を預けた。
大倶利伽羅は初めて会った時と同じで、長い手足を投げ出して空を見ている。
ああ、本当はすぐにでも駆け寄って、その身体に飛びつきたい。一緒に寝転んで、以前と同じようにどこかへ遊びにいきたいし買い食いだってしたい。
でも、僕はきっとこの気持ちを我慢できなくなる。そうしたら、大倶利伽羅の迷惑になる。
大倶利伽羅は僕をいい友人だと思ってくれているのに、僕というやつは。
なんだか泣けてきた。
やっぱり今日はここまでにしよう。僕は身体を起こして橋を渡り切った。
その時、大倶利伽羅と同じだぶだぶのスボンに長袖の格好をした男が僕の目の前を駆け抜けていった。
思わず目で追うと、男は大股で河原を降りていく。
男は大倶利伽羅よりも少しがたいがよくて、大倶利伽羅よりも少し年上に見えた。
大倶利伽羅の傍にしゃがみこんだ男は、何か彼に向けて親しげに話しかけているようだ。

「誰?知り合いかい?」

胸が焦げ付くような思いで僕はそれに見入る。
ぐっと目を大きく開いた。ランドセルの肩ベルトを掴む手の力がぎりぎりと強くなった。
大倶利伽羅は上半身を起こして男に返事をしている。
何だろう。僕の知らない、おとなの話だろうか。僕とはしない、できない話なのだろうか。
何かを尋ねられたのか、大倶利伽羅が首を振る。立ち上がってどこかへ移動しようとする彼の肩を、それを追った男が掴んだ。
大倶利伽羅は煩わしそうに男の手を払ったけれど、男には気にする様子がない。

「えっ……」

男は大倶利伽羅の腰に腕を回して彼の身体を固定し、顔を近づけた。
かっと頭に血がのぼった。
キスされる。
大倶利伽羅がキスされる。
男に。
あんな男なんかに。
僕は地面を蹴った。
ランドセルが重たく揺れる。ええい、邪魔だ。
腕をランドセルの肩バンドから引き抜いた。ボン、とランドセルが落ちる音と中身が散る音がした。でも、知ったことじゃない。
かけっこだって、僕は得意なんだ。

「大倶利伽羅っ!」

叫ぶと同時に足がつんのめった。
ぐるん、と視界が回転する。大倶利伽羅に促されて空を見たときとは違う回転の仕方だった。僕は体育で教わったように手と頭をついてなんとか前転すると、そのまま止まらずに走る。
ついていた草が頭の上からぱらぱらと散った。
二人は、驚いたような顔でこちらを見て動かない。
僕はそのまま大倶利伽羅をよけて男にタックルした。

「う、わっ」

男は分厚くて、僕のタックルでは転ばせられなかった。
でも流石に衝撃は受けたようだ。後ろに二三歩下がって、大倶利伽羅が解放される。

「光忠……」

驚く大倶利伽羅の腕をつかんだ。
彼のそれは僕よりも太くて、掴むというよりもむしろ腕を回すような形になったけれども。

「おい、そいつはなんだ大倶利伽羅」
「こいつは、」
「……僕は!」

この男は大倶利伽羅に好意を持っている。
僕が散々検索してきたサイトに載っていた、絡み合う二人みたいになりたいんだろう。
男でもOKだという前提があったとして。体格的にも年齢的にも、きっと僕よりもこいつのほうがお似合いだ。でも男でもOKなら、僕はこんな奴に大倶利伽羅を渡さない。

「僕のほうが! 僕のほうが君よりも大倶利伽羅を好きだ!」

大倶利伽羅の腕を抱きしめながら宣言した。指先が久しぶりに大倶利伽羅の肌に触れて、こんな状況なのにきゅうっと切ない気持ちになる。

「はっ」

男は僕の宣言を鼻で笑った。

「まだ子供じゃないか」
「好きって気持ちは、子供だって大人だって変わらないさ。それに、僕はもう大人だ」

白いのだって出る。

「どこからどう見ても子供にしかみえねえが」

僕は男に見下されている。
でももうこれ以上どう言い返せばいいのかわからなかった。気分が高まって目の奥が熱くて、口を開くとわけのわからない言葉が飛び出てきそうで。
唇を噛むことしかできない。それが子供と言われれば、もうなすすべがなかった。

「光忠」

僕が抱えた大倶利伽羅の腕が、ぴくりと動く。
宥めるような声色で名前を呼ばれて震える。離せと言うのだろうか。男の所に行きたいから?

「いっ、いかないで。あの人と行かないで。僕の傍にいて。他の奴と、キスなんかしないで」

僕が縋り付いて言うと、大倶利伽羅は、はあと大きなため息をついた。
呆れられた。僕はがく然として、涙をこぼした。

「泣くな」

ぱし、と中指でおでこを弾かれた。顔を上げたところで、大倶利伽羅に抱きしめられる。

「おお、くり……」
「俺が、どれだけお前を待っていたと思ってる」
「……え、」
「お前のほうが突然来なくなったんだろう」

大倶利伽羅に骨が軋むほど強い力で抱きしめられる。

「だって、怖かったから。僕の普通じゃない気持ちを、大倶利伽羅が受け入れてくれるわけないって」
「俺は前も言っただろ。普通じゃないことは大歓迎だ。それに人の気持ちを勝手に決めるな」

大倶利伽羅が腕の力を緩めた。
怒っているのかと思ったけれど、顔を見上げたらそうじゃなかった。
琥珀色の瞳が、僕をまっすぐ見ている。その目じりは、空を見て楽しんでいた時のように柔らかく下がっていた。

「じゃあ、」
「ああ。だがそれは、あいつを断った後でだ」

僕の唇に指先を押し付けてから、大倶利伽羅が男へ向き直る。

「悪いな。こういうわけで、俺はあんたとは付き合えない。どうやら、本命がもらってくれるらしいから」

大倶利伽羅の言葉に、男はぽかんと口を開けてから笑い出した。

「んだそりゃ。こっちにきて初めてできた好きな奴、って」
「ああ、こいつのことだ」
「小学生だろ、普通じゃねえぞ」

男は大倶利伽羅の前に立って僕と彼とを交互に見た。
なんだか放っておいたら大倶利伽羅に触れられそうだったから、僕は彼を守るように間に入った。ひとつだけ、男に言い返す言葉を僕は知っている。

「君は、普通だから何かをするのかい?」

僕の言葉に、大倶利伽羅は後ろで笑っているようだった。




僕は男の姿が見えなくなるのを待ってから、ゆっくりと大倶利伽羅を振り返った。
大倶利伽羅は空を見上げていた。初めてであった時と同じ、青々とした空を。

「大倶利伽羅」

その目に僕を入れてくれ。僕は名前を呼んで、大倶利伽羅の手を引いた。

「僕は、君が好きだ」
「さっき聞いた」
「大倶利伽羅は?」
「ああ。俺も……お前が好きだ、光忠」

僕は草の上に勢いよく大倶利伽羅を押し倒した――のは脳内の想像だけで、それをするには力が足りなかった。
彼の胸に飛び込んで、逆に抱きしめられる。

「正直俺は、何度も悩んだ」
「男同士だから?」
「そっちより、年の差の方だな」

ぽんぽんと頭を大きな手で撫でられると、彼の危惧する部分が明確に分かる。

「……僕、そっちは気にしなかったけどな」
「それはお前のほうが年が低いからだ。それで?お前が気にしたのは」
「男同士だってことだよ」
「なるほど。お前は年齢くらいなら気にはしないだろう、腹をくくってアピールしてくるかもしれないと思ったんだが、お前が来なくなったのはそっちが理由だったか」
「そりゃそうだよ。僕は、大倶利伽羅を好きで……いろいろしたくて、そんな自分が嫌で、怖くて。え……というかどうして君、アピールするかもって、僕が」
「お前の目が雄弁に語ってたからだろ、馬鹿」

僕の頭をくしゃりと撫でながら、大倶利伽羅の腕が僕を持ち上げた。

「ちょ、ちょっと何をするんだい?」
「続きは俺の家で聞こうか。ここじゃ、キスもできないんでね」
「キス」
「今、色々したいといっただろ。しないのか?近頃の小学生はマセてるって聞いたが」

僕は大倶利伽羅の腕の中でこくこくと頷いた。
ずっと夢に見ていた大倶利伽羅の唇に触れられると思うと、また股間がむずむずしそうだ。
僕はじたばたして大倶利伽羅の腕から逃れると、腕を引いて先を急がせた。




大倶利伽羅の部屋に入るのは久しぶりだった。
玄関の水槽にいるザリガニは、まだちゃんと元気で安心する。
廊下の途中にお風呂場があって、僕はあの日を思い出して立ち止まってしまう。

「何見てるんだ。部屋、入らないのか」
「え、っあ……」

先に入って電気をつけた大倶利伽羅が廊下を戻ってくる。

「顔赤くして、風呂場がどうかしたか」
「ご、ごめん。あのね、僕……大倶利伽羅がお風呂入ってたの、あの時、覗いちゃって」
「あの時?覗いて?って、まさか……!」

大倶利伽羅の頬に朱が上った。
見上げる僕の視線から逃れるように顔を逸らす。
さらりと流れた猫っ毛の隙間から見える首筋が赤い。お風呂でしていたあの時と同じだ。

「ねえ、あの時の大倶利伽羅って、やっぱりその……オナニーしてたの?」
「聞くな、馬鹿」
「聞きたいんだ。仕方ないだろ?」
「してて悪いか。俺だって男だ」

僕は大倶利伽羅の手を引いてこちらを向かせる。
彼の目が、ああほらやっぱりべっこう飴色になっている。

「もしかして、僕のこと考えてた?」
「……っ、黙れ」

眉を寄せて首を振る彼こそ、雄弁に語っている。
僕は大倶利伽羅の手を引いて肩にすがり付いた。キスしたい。今すぐキスしたい。両想いだっただけでも奇跡なのに。お互い激しくおもって、ああいうことをしていたなんて。
身体を抱きしめながら唇を乞う。
大倶利伽羅は柔らかくもなくて骨ばってごつごつしていたけれど、やはりいい匂いはした。

「聞きたいって顔じゃないぞ」
「じゃあ、どういう顔してるかな、僕」

僕が背伸びをしても、大倶利伽羅の唇には届かない。
だからただじっと腰にまとわりついて大倶利伽羅を見つめる。
べっこう飴の彼の目が、どろどろと溶け出していった。

「したいって顔だ、くそっ」

ずるり、と彼の身体が下がってくる。彼は壁に背を預けたまま廊下にぺたんと座り込んだ。
僕は今しかないと思って中腰になりながら大倶利伽羅に口づける。

「……ん」

大倶利伽羅が鼻から抜くような声を出した。あ、おちんちんにくる。

「んむ、」

何度も何度もキスをしてみるけれど、唇の柔らかさはあまりわからなかった。おちんちんが痛くなってしまうほうに集中してしまうからだろう。
でもベッドのシーツみたいに冷たくはないし、カサカサもしていない。
キスを重ねるごとに、頭がぼうっとしていった。

「大倶利伽羅、べろ出してほしい」
「……ディープとか、知識あるのか」
「雑誌でみた、だけ」

大倶利伽羅が僕にキスをしてくる。驚いていると、唇を割り開いて大倶利伽羅の舌が中に入ってきた。ざらざらするのかなと思ったけれど、ただ熱くて濡れているのだけが確かだ。つん、とつついてから、大倶利伽羅のくちのなかに一緒に押し込む。

「ふっ、う」
「くるしい?」
「平気だ、好きにしろ」

ああ、かわいい。一回りも年上の男にかわいいなんていうのはおかしいかな。でも、僕の好きにさせてくれる大倶利伽羅が可愛いんだ。僕のことを好きだから、そうさせてくれる大倶利伽羅が、可愛いんだ。
僕は顔をかたむけて大倶利伽羅の唇にくらいついた。舌をめちゃくちゃに動かしていると、僕の手を大倶利伽羅が掴む。
落ち着け、と言われているようで僕は少し動きを緩めた。
ずっとしたかったキスは、幸せで気持ちよすぎて、涙がでそうだった。

「……はっ。全くお前、小学生のくせになんだそれは」

唇を離した大倶利伽羅が僕の股間を見る。
僕のハーフパンツを、勃起したおちんちんが押し上げていた。

「やっぱり、へんかな」
「へんなのは俺もだがな」

大倶利伽羅が僕のズボンの上からそこに手を触れる。僕は突然の刺激に腰を引いた。

「あっ、大倶利伽羅っ」
「俺はショタコンの気はないのに、お前と会った時からお前のことが嫌いじゃなかった。また会いたいと、そう思って」

僕の腰を掴んで、大倶利伽羅はズボンの上からそこに顔を近づけた。

「……え、え?」
「ふん、普通じゃないことは楽しいな、光忠」

ニィ、と大倶利伽羅の目がしなった。
その鼻先が、ぐりぐりと勃起を主張する場所に押し付けられた。
刺激が強すぎるよ。
もうパンツの中で僕はびくびくとしていたし、精液がそこまでせり上がってきていた。

「で……出ちゃうよ、大倶利伽羅」
「出されたら困るな。……犯罪みたいなものだから、今日まで手は出すべきじゃないと思ってたんだが」
「はあっ、はあっ、」

僕のおちんちんの形を浮き彫りにするように、大倶利伽羅はズボンの上からそこを長い指でたどった。
大倶利伽羅のてのひらが僕のおちんちんを包み込む。

「お前はこんなにもしたそうにしてるから、まあ構わないか」

逃げ場のない廊下で、ぐいっ、と身体を抱え上げられる。
さっきもそうだったけれど、これは男としては凄く恥ずかしい。土木工事なんかをしているから、力が強いのだろうけど、僕もいずれは大倶利伽羅を持ち上げてやると誓う。
そのまま部屋へ連れていかれて、奥にあるベッドへどさりと下ろされる。

「そうだ、お前が寝てる時、キスして悪かったな」
「えっ!」
「唇も舐めた」
「ちょ、ちょっと待って。えっと……」

頭が混乱する。
僕が泊まってここで眠ったあの日、確かに僕は大倶利伽羅に抱え込まれていたけれど。

「俺の方が、最初にお前に発情した」

大倶利伽羅が僕の目の前で薄い生地のシャツをぐわっと脱いだ。
彼がいつもつけている金色のネックレスが、むき出しの胸の上で、ちゃらり、と揺れる。

「一人でするとき、お前のちんこ入れられる想像して、あんあん喘いでた。気持ち悪い大人だろ。お前がきてたあの時は、さすがに尻はいじらなかったが」

大倶利伽羅は僕を挑発するように、自分の胸を大きなてのひらでいじった。
ほんものの裸と痴態に興奮する自分の中で、もしかして彼は慣れているのではないかという疑問が浮かんだ。

「お、大倶利伽羅は、他の人ともこういうこと、」
「まさか」

震えてうつむいた僕の手を、大倶利伽羅が握った。

「お前が初めてだ」

両手で顔を挟まれて視線を合わせられる。

「お前は……俺にとって特別なんだ、光忠」

大倶利伽羅の目は、琥珀とべっこう飴の中間の色をしていた。鼻先がふれあって、彼の汗がぺとりと僕の鼻にもついた。

「僕、ずっとそうなればいいなって思ってた。大倶利伽羅と、ずっと一緒に……」

手を繋いで歩いた日も。そう思って。

「ああ。ずっと一緒にいよう、光忠。お前が俺に飽きるまではな」

大倶利伽羅が膝立ちになってズボンを下ろし、パンツ一枚になる。

「僕は飽きたりしないよ、絶対に」

僕の目の前に晒された大倶利伽羅のパンツは鼠色だった。
その鼠色が、おちんちんのある場所だけ濡れて濃くなっている。

「ああ、……うわあ」

男の人の裸を検索してはそれを大倶利伽羅に置き換えて妄想していたけれど、本物はそれよりもずっと興奮する。

「見るか、俺がしてるとこ」
「みたい、見せて」

大倶利伽羅は豪快にパンツを脱ぐと、そのまま僕の前で両足を開いた。
黒々とした陰毛を押し上げて、ぶるん、と勢いよくおちんちんが飛び出てきた。
僕のよりも大きくて、皮なんか全て剥けていた。でも、先っぽがピンク色で、かわいい。
すらりと長い脚は筋肉がしっかりついていて、動くたびにその筋が浮き出たり引っ込んだりするのが綺麗だった。

「お前に期待しすぎだな。先走りだけでいけるかも」

大倶利伽羅は、ぷくりと水の球を作って濡れる彼のおちんちんの先端に触れた。根本を扱きながら彼がふっ、ふっ、と小さく鼻で息をしているのを聞いて、僕はもじもじと太ももを揺らした。

「ん……」

指先に取った透明な液体を、大倶利伽羅はそのまま後ろの穴へと持っていく。
珠の下にあるそこは、皺があって、少し周りよりも濃い色だった。
僕の鼻息も荒くなる。

「入るとこ、見てろ」

べっこう飴色の目が、こちらを挑発するように輝いた。口のなかに唾液がたまる。
大倶利伽羅は指先でひだを伸ばすと、起用に穴の中に滑らせた。

「……っぅん、」

大倶利伽羅の喉が、子猫の鳴き声みたいな音を出した。
僕のおちんちんが、また大きくなる。
そのままでいるのが苦しすぎて、僕はそこでズボンを脱いだ。

「一丁前に、お前もボクサーなのか」
「だって、ブリーフかっこわるいし」
「トランクスは」
「かさかさするから嫌いなんだ」

大倶利伽羅は僕の前で指をおしりに入れてくにくにと動かした。
彼の腹筋ででこぼこのおなかの近くで、大きなおちんちんが揺れている。
さわり、たい。
大倶利伽羅がおしりの穴に二本指を入れるところまで見守っていたけれど、そこで限界が来た。

「大倶利伽羅、触っていい?触りたい」
「どこに」
「おちんちんとか、お尻の穴とか。ひとりでするのを見てるだけはつらいよ」
「……くそ。お前のその目に俺は弱いんだ。……もう、好きにしろ。たぶんそのまま入れても死にはしないさ」

大倶利伽羅はちゅく、と指を引き抜いた。
僕がやりやすいように腰に枕を敷いた状態でひざ裏を持ってくれる。

「大倶利伽羅、可愛い」
「うるさい」

僕のちんちんはもう限界だった。
痛くて痛くて仕方がない。
パンツをずらすと、上を向いたおちんちんが出てきた。こうなると、皮が引っ張られて剥ける。

「小学生にしては、でかいな」
「大倶利伽羅と同じくらいに、なるかな」
「牛乳のめ」
「そうする」

僕は大倶利伽羅のおちんちんに触った。

「あっ」

高い声で大倶利伽羅が鳴く。それが恥ずかしいのか、きゅっとすぐに口を噤もうとするのが、かわいい。いつも恰好良くて僕より大人でいろんなことを知っている彼がこんな風になってしまうのかと思うと、もう僕は堪らなかった。

「大きいと敏感になるのかな。それとも、大倶利伽羅が弱いだけ?」

大倶利伽羅の気持ちよさそうなとろけた顔を、もっと見たい。
僕は必死でおちんちんを掴む手を動かした。
自分にするときと同じように、裏がわを親指で削るように擦る。

「あっ、あっ……みつ、みつただっ、お前、なんでそんな、うま……っ」
「きもちいい?きもちいい?大倶利伽羅っ」

うまいなら、それは僕が大倶利伽羅を気持ちよくさせたいという気持ちが通じているからだ。
僕は大倶利伽羅のおちんちんの下にさがった袋をもう一方の手で転がす。
ころころきゅうきゅうもてあそんでいると、大倶利伽羅の全身が震えはじめた。

「……んっ、はあっ、」

僕は大倶利伽羅のものをしこしこ擦りながら、膝断ちになってずりずりと彼のほうへ近寄る。
そのまま腰を突き出し、濡れたおしりに立ち上がったおちんちんを擦りつける。

「あっ、そこ、だめだっ」

袋の下の所を突くと、大倶利伽羅は喉を晒してのけ反った。
そこはふにゅふにゅと柔らかく、おちんちんの先がとても気持ちいい。

「だめ、あっ……」

ぬる、ぬる、と僕のおちんちんから出たもので滑る。
暫くそれを繰り返していると、大倶利伽羅のおしりの窄まりにちゅぽちゅぽと先がはまった。

「はっ、はいっちまう……っ、あっ、光忠の、が……はいっ、って」
「大倶利伽羅、あ……っ僕、入りたいっ! なか、いれたい」

本能にしたがって腰を進める。
すると、僕のおちんちんは大倶利伽羅のおしりの穴にぐぬぐぬと飲み込まれていった。

「うー……あっ、くぅ、」

大倶利伽羅は僕の下で苦しそうに息をしている。

「ごめん、ごめんね、大倶利伽羅」
「か……構わない。が……まだ、動くな。ゆっくり……」
「ああ、ゆっくり動くよ」

大倶利伽羅の中はきつくて、あつくて、僕のおちんちんが食べられているようだった。
そのままつながっている部分から、どろどろ溶けてしまいそうだ。

「頼む、はじ、めてだから、おれ……っ」
「あ、あっ、僕だ、って」

大倶利伽羅ほどの年齢の大人なら、経験がある人も少なくないことを僕は知っている。
でも、彼は初めてだという。
たったひとりの相手に僕を選んでくれたことが嬉しい。

「嬉しい、嬉しいよ僕……」
「言った……ろ。お前は、特別だって」

大倶利伽羅の手が僕の頬を撫でて、ゆるりと頭を撫でた。
しばらくゆっくりと腰を動かしていると、彼の寄せた眉がほどけてきた。

「大倶利伽羅、くるしくなくなってきた?」
「ああ、……うごいて、いい」

うん、と頷かれて、僕は大倶利伽羅の太ももを持ち上げた。
ぐっと腰を押し付ける。

「んくっ、あ、そこっ」
「ここ?」

ずりずりと抜き差しを繰り返すと、大倶利伽羅が反応する場所が分かってきた。
でも、気持ちよすぎて加減なんかできそうにない。

「はあっ、気持ちいい、大倶利伽羅、おおくりからっ」

抜き差しを繰り返すたびに、がく、がく、と腰が激しく動いてしまう。

「光忠、あっ、いい、浅い、とこっ……んうっ」

大倶利伽羅の低く柔らかな声が、堪らない。
甘くなって、脳に響く。
気持ちよくなってくれているのが分かって僕の胸がいっぱいになる。
心臓がこれいじょうないほど大きくなった。
僕は大倶利伽羅のぼこぼこと割れた腹筋を撫でた。僕が腰を動かすたびにふるふると揺れるおちんちんを手で扱く。もう苦しそうで、ぱんぱんだった。

「ひっ、あっ、そっちは……いい、」
「ど、……して?触って……あ、……欲しそう、だったよ……?」

僕は腰を動かしながら、それに合わせて大倶利伽羅のおちんちんを擦った。
大倶利伽羅は悲鳴のような声を出す。
ぎゅうう、とシーツを掴むのが見えた。腕の龍の尾までが震えている。

「大倶利伽羅……きれいで、かわいくて、かっこいい、……すき」
「ん、んーっ……!」

大倶利伽羅の身体がびくびくと痙攣した。
掌の中で、ぶるっとおちんちんが跳ねる。
びゅっと精液が彼の腹へ飛び散った。二度、三度に分けてぴゅくぴゅくと弾ける。
そして、僕ももう我慢できなかった。

「おおくりから……っ!」

大倶利伽羅にかぶさるようにして、僕は彼の腹の中に精子を吐き出した。

「はあ……はあ……」
「みつただ、よかったか」
「うん……うん……」

大倶利伽羅とセックスをしたことが嬉しくて、僕は彼の上にぐでっと身体を預けながら少し泣いた。

「子供でこれだと、成長した時がこわいな」
「もう大人だよ、僕は」
「まあ、大人にしたといえばしたのか、俺が」

俺が、の発音に少しだけ独占欲を感じた。

「僕だって君を大人にした」
「……まあな」

彼の上からどいて、ごろりと隣に寝転ぶ。次第に熱が冷め始めると、彼が掛布団を手繰り寄せた。

「寝るのかい?」
「まだ夕方だが、俺は疲れた」
「お母さんに連絡しないと怒られるかな」

子供だと言われるかもと思ったけれど、彼は優しく僕の頭をなでるだけだった。

「その問題は重いな。先に連絡しちまえ」
「わかった」

僕も腰のあたりがじんわり疲れていたけれど、彼ほどつらくはない。立ち上がって携帯を取り出した。

「お母さん? 僕だよ、今日泊まってもいい?」

――誰のおうち?

「友達。前も泊まらせてもらったところ」

大倶利伽羅の方を見ると、少し寂しげにひとみが揺れていた。
だから、

「今回は好きな子もいて。チャンス逃したくないんだ」

僕はそう宣言した。すると、お母さんが電話の向こうで息をのむ。
――もうそんな年なのねえ。

「いいだろ?」

それが男で、年が一回り上だっていうことは、しばらくは言えない。
普通じゃないことだから。
普通じゃないことだけど。
僕は、それを恐れずに始めようと思う。
子供だと認めてもいい。これからどんどん大人になって、もっとずるい事を知っていくことができるなら。そうして大人になって、親や周りを説得できるなら。
大倶利伽羅の方を見ると、彼はベッドの上で寝返りを打っていた。
耳からうなじにかけてが、赤い。ふふ、と僕は笑ってしまう。
――わかったわ、頑張りなさいね。
僕は電話を切って大倶利伽羅の隣に潜り込んだ。
あたたかい身体を抱きしめていると、白いカーテンの向こうに橙色の空が見えた。
僕は目を閉じてそれを見た。
大倶利伽羅と初めてであった空が見えた。


***


ごうごうと激しい龍が大陸に近づいていた。
大陸のどこかで、ひとりの男が河原を駆けおりていく。
その先には、ひとりの男が寝転んでいた。

「台風が来るんだよ、だから――」